約ネバついに完結しました!
結末の形に関しての正直ありのままの感想としては、不満点がいくつかありました。
私はこの作品のどこに満足してどこが不満だったのか、ゆっくり考えて感想書きました。
まず一番大きな不満点は、ピーター・ラートリーとグランマ・イザベラの処遇です。「期待外れだった」という意味で。
死なせる意味ありました?
私は別にこの2人に「生きてほしかった」と願ってたわけではありません。
物語として漫画のキャラとして意義のある結末ならば生存しようが死亡しようがどちらでもいいと思います。
でも私には2人とも「意義の無い死亡」に見えたので、それだったら別に「意義の無い生存」でも良かったんじゃね?みたいな感じでした。
約束の履行のあの場所に2人も生きて居合わせて、みんなで一緒に人間の世界に行ったら良かったんじゃね?
この2人の死亡を抜きに考えたら、この作品の結末は全部ハッピーエンドです。
鬼の食糧問題も、女王の腐敗政治の一新も、全食用児の身の安全も、モブママ&シスター達の救済も、ラムダの実験児の命も、鬼の神■■■(文字にできない例のアレ)の「ごほうび」問題も、ぜーんぶ丸く、言ってしまえば都合のいい決着がつきました。
どうせ都合がいいなら、2人も都合よく人間界で幸せに暮らして終わりで良かったんじゃね?
仮にもし、2人の死が、「何もかもが都合良くいくわけではないよ」と、完全ハッピーエンドではなくビターハッピーエンドにするために死なせたのだとしたら、今度は2人の死に方のほうに不満が出てきます。
はっきり言ってどっちもしょぼい死に方です。
ピーターはただ自殺しただけ。イザベラは名も無きモブ鬼に奇襲されただけ。
だったら、そんなつまらない死に方させるくらいなら、例えば、ピーターとイザベラが直接戦って相討ちになって両者とも死ぬ結末とかにしたほうが、両者が背負うラートリー家とグランマのけじめを貫いた死に方になって、その場面をエマ達と読者に見せつけることでその重さや「何もかも都合良くいくわけではないこと」をより示せたんじゃないのかなあー、なんてことを私は想像しました。
エマ達が2人にそれぞれ「共に生きよう」と手を差し伸べた際に、ピーターはつっぱねて、イザベラは受け入れて、この違いは何となく分かるので、その違いで2人が直接激突してほしかったと言うか。
私、イザベラがこの漫画で一番注目してたキャラでした。
「この漫画すげーなー」と思ったきっかけのキャラでしたから。
(そのことについては当時にブログに書いたので今は省略します)
イザベラ、そして彼女の実の息子であるレイはどんな決着をつけるんだろうってのがかなり気になってたので、私が妙に気負ってただけなのかもしれませんけどね。
あと他の不満点は、レウウィス大公です。「物語が足りない」という意味で。
彼も超ナイスな悪役キャラだと感嘆したキャラでした。
で、猟場編のラストで「生きてるかも?」という描写があって、実際に生きてて、再登場してムジカの危機を救いました。
なぜ生きてたのかの理由は、「核が二つあるから」という女王レグラヴァリマ戦を見たあとでは「なるほどな!」と納得させられるものでした。
そして一度死んだことで何か「憑き物が落ちた」ような心境になったことも自然な感じがします。
しかし読者の私は彼が生きてたことに感心しても、あの猟場の被害者だったオリバー達GV出身者はレウウィスが生きてたと知った瞬間に怒り狂うと思うんです。
だってそうですよね?許せることじゃないですよね?レウウィス達貴族鬼がやってきたことは。
エマ達が人間を食べてた鬼の市民やラートリー家とママ達を許したのは理解できます。
でも、彼らがどうしようもできない世界の中加害者になりたくてなったわけでないことに比べたら、貴族鬼が違法の猟場で虐殺ゲームを楽しんでたことは、もう別次元の問題ですよね。
なので、オリバー達がレウウィスを許すとしたら、エマ達の許しよりもはるかに強い意志での「許す決断」が無いと到底できないと思うんです。
でもそこはバッサリカット!
……とは言え、この問題は、主人公であるエマ達の物語からは外れる脇役の問題なのでそこにページを割いてられないという漫画製作上での事情はあると思うので「絶対不可欠なのに」とまでは思っていません。
ひょっとしたらオリバー達はレウウィスが生きてることを知らされないまま人間界へと旅立ったのかもしれません。
とまー私が結末で心にひっかかった点はこんな感じです。
私にとってはこの約束のネバーランドという作品は「結末のいくつかは気に入らない」「そこ以外は素晴らしかった」という感想になりました。
これはあるいはこれから時間が経てば私の中の印象も変化するかもしれませんが、まー読み終えた直後のありのままの感想ということで。
でもここで今日のブログ書き終えたらただ批判しただけで終わってしまうので、それはちょっと嫌すぎるので、もうちょっと他に思ったことも書き散らしたいです。
マジで感心して感動してるんですよ私この作品に。
主人公エマが女の子だっていうのは本当に画期的で、しかも見たことのないヒロイン像……じゃない、主人公像でしたよね。
作者の白井カイウ&出水ぽすかがどこかで語ってたと思うんですが、あえてオーソドックスな美少女っぽさを消したキャラデザにしたんだとか。
そうしたことが一番活きたと思うのは彼女が左耳を失ってるってところです。
あれをオーソドックス美少女がやったら、悲惨さとかインパクトがちょっと違う方向に行っちゃったんじゃないかと思います。
なんて言えばいいかな、例えば「片目に眼帯をしてる美少女キャラ」ってよくいるじゃないですか。でもそういう子が実際に目が潰れてたら、ちょっとひいてしまって「眼帯美少女」が美少女である意味が無くなると言うか。
体の、特に顔面のパーツの欠損って、それくらいデリケートかつ重大なイベントです。
あれはこのキャラデザのエマがやったから、この作品のノリや世界観が変な方向に行かずに済んだんじゃないかな、なんて思ってます。
体のパーツの欠損なら他にルーカスやサンディもいるけど、彼らは男で、やっぱり男と女じゃ印象度は変わりますね。女がやるには繊細な配慮が必要なのはしょうがない。
そういや、最終回の記憶を失ったエマは首筋の番号が消されてたけど、そういう肉体の操作もされてるなら、いっそ左耳も再生してても良かったのではってちょっと思いました。
そして彼女の中身の性格のほうは、こっちは割と(ジャンプ系では特に)よくいる不殺主人公でした。
ノーマンの鬼を皆殺しにする作戦がありましたが、あれはあの状況では絶対に必要なことで、エマの「鬼を殺したくない」という主張はノーマンが皆殺し作戦を考えてくれたからこそ言えたことだよなーとか思いました。
そしてそれがまかり通るというジャンプならではの主人公ムーブでした。
で、そのへんで感心したのが、エマがラストで自分の記憶を奪われることに同意した理由がそこに繋がってたことでした。
自分の考えを「甘っちょろいワガママ」だとも思っていたんですね。
さりげない一言でしたが、この一言があるか無いかだけで彼女の不殺主人公像は結構変わると思います。
何と言うか「ちゃんと向き合ってる」と言うか。
今このブログ書くために終盤を読み返して、こまごまな感想はたくさん湧き上がるのですが、特に書き散らしたいのはこんなところです。
ちなみにイザベラが死ぬシーンを改めて読み返したら、私は上記では偉そうに批評したくせに、涙がジーンと浮かんだりしました。私は調子のいいアホです。
イザベラとレイは本当に悲しい親子でした……。
マジですごい作品だったと思います。
全20巻で完結かあ。
鬼滅とか暗殺教室とか近年のジャンプの大ヒット作はそれくらいの巻数が多いような気がします。
50巻とか100巻とか超えるような長寿連載はもう時代じゃないのかもしれません。
これくらいの巻数がちょうどいいのかもしれません。
そして今後も(大ヒット作が生まれる確率は相変わらず低いですが)次々とそんな感じの作品が生まれ続けるのかもしれません。ジャンプは。